◆世界一のレストラン「Noma」による日本の再評価
今年の1月に飲食業界に大きなインパクトを与えたビックイベントが発生した。
それは「世界のベストレストラン50」にて過去に4度1位を獲得し、現在”世界一のレストラン”を言われているデンマークの「Noma」がマンダリン・オリエンタル・東京に約1カ月の期間限定出店を行ったことだ。
「Noma」の存在はただデンマーク・コペンハーゲンに「美味しいお店がある」というレベルのものではない。
科学的な研究を背景にした新しい調理技法を生み出し、それらを次々と世界に発信し驚愕をもたらしたスペインの「エルブジ」。その「エルブジ」で修業したシェフのレネ・レゼピ氏により生み出される斬新なアイデアにあふれる料理を、さらに「Noma」のあるその場所(デンマーク)で手に入る食材や器などにこだわって表現することで、これまで注目されてこなかったデンマークの食材の数々が再評価され、さらにその影響の中で新しいデンマークの食文化が「Noma」を中心に生まれたのだ。
その結果デンマークに来る観光客の目的が「美食」に切り替わり、年間の観光客数が11%増加するという社会的な変動をたった1軒のレストランでしかない「Noma」が実現させてしまったのだ。
その「Noma」が日本に出店するにあたりデンマークの食材や器をそのまま持って来るのではなく、日本の食材や日本人の陶芸家が作る器、さらに日本の職人が作る調度品に至るまで入念なリサーチを実施し、日本という場所で手に入るものにこだわった”日本の”「Noma」を表現。
「Noma」を通して日本を再評価する試みがそこで行われたのである。
その「Noma」日本出店に当たり日本の器の1つとして選ばれた陶芸家が福岡県うきは市にいる。
陶芸家・大村剛氏がその人である。
◆自分と向き合うことで生まれた作風
現在38歳の大村氏は自分の子供の頃のこのことを「難しい子供だったと思います」と言う。好き嫌いがはっきりしたエキセントリックな面があり「今は自分に子供が出来て分かりましたが、そんな子供を両親がよく育ててくれたなと思っています」と。
ただ、同時に表現欲求は子供のころから強くあり、将来は「画家になるんだ」と思い続けていた。
何かを表現したいという気持ちを外に出さないと生きていけない。
そんな感覚をずっと持っていたのだ。
画家になるというのは表現欲求を発揮できる職業を他に知らなかっただけ。
しかし、現在の陶芸家・大村剛になる準備は子供のころからじわりじわりと行われてきたとも言える。
そんな大村氏が陶芸の道に入ったのは、20歳の時に岩田圭介氏の器に出会ったことがきっかけであった。
両親が福津市で経営する飲食店で使われることになった、同じ福津市在住の陶芸家である岩田氏が生み出した器。
それを見た時、その肉厚で生命力にあふれる表現に魅了され、陶芸による表現の可能性の高さを感じたのだ。
そして「好きになっちゃったから」と、すぐに岩田氏に弟子入りを志願することになる。
岩田氏の下で1年間弟子として修業をした後、岐阜県の多治見工業高校陶磁科学芸術科に入学。
卒業後は同じ多治見市にある貸し工房で器を焼きながら自らの作風を模索し、2007年にうきは市の現在の場所に窯を開き今に至る。
大村氏の作風は師匠である岩田氏のものとは大きく違う。
大胆で型にはまらない岩田氏の器に対して、一見すると鉄器のように見える薄くメタリックな質感をもった器が大村氏の作風。
その違いは1年間修業した師匠に最後に言われた言葉による。
多治見の学校に入ることになり自らの下を去ることになった大村氏に岩田氏が言った言葉。
「1年間ここで見たものはすべて忘れろ」
それは大村氏にとっては呪縛のような言葉だったかもしれない。
しかし、その言葉があったことから大村氏は”自分の器”を模索し続けることになる。
多治見での学校生活からの貸し工房での作陶に続く日々は、自らに向き合う作業であった。
自分が何を表現したいのかを模索する日々。
師匠が轆轤(ろくろ)をあまり使わない人であったので、自分は轆轤にこだわり器を作り続けた。
その中で今の作風に行き着いた背景には自分自身のエキセントリックな嗜好がある。
「昔から金属が駄目なんです。特に金属と金属がぶつかる音がどうも生理的に受け付けない。全然駄目なんです。だからスプーンやフォークはすべて木製を使っています。でも同時に金属が苦手だから金属にあこがれがある。だから金属で出来ているように見える器を作っているのです」
子供の頃から抱えているエキセントリックな好悪の感情を否定することなく、それを受け入れることで生まれている今の大村氏の器。それは師匠の「すべて忘れろ」という言葉に端を発し、自分と向き合う姿勢を持ち続けたが故に生まれた作風であったと言える。
◆「Noma」の盛付けのイメージから始まった皿作りと、現実の「Noma」
不思議な縁がある。
それは「Noma」との縁。
大村氏が独立当初主に作っていたものは片口などのいわゆる「タチモノ」と言われる器が中心で、皿はあまり作っていなかった。
自分の焼いたお皿をどのように使ってもらえれば料理がより美しくなるのか?
そのイメージが中々自分の中に沸いてこない。
だからこそ皿を積極的に焼こうという気持ちになりにくかったのだ。
その大村氏の気持ちをひっくり返したのが「Noma」であった。
「Noma」が出版したレシピ本、そこで表現されている数々の料理と器。
それを見た時の印象を大村氏はこう語る。
「すべてが過不足ない完璧な一皿がそこにはありました。ビジュアル的に余計なものが1つもない。器を含めた全ての要素が料理を美味しく美しく見せている。こう盛ってもらえるならば器が料理を引き立てるんだと目の前が晴れるような気がしました。そこからNomaに盛付けしてもらうことをイメージして皿を焼き始めたのです」
そこで描いたイメージは本来なら叶わない淡い夢のようなものだったはず。
しかし、その夢は「Noma」日本出店にあたり器類の調達を行っていた「アーツアンドサイエンス」からの電話で現実のものとなった。
たまたま「アーツアンドサイエンス」のスタッフが持っていた1枚の大村氏が焼いた皿。
その皿が決め手になり大村氏の器が「Noma」が日本で使う器の1つとしてオファーが入ったのだ。
大村氏が「Noma」に依頼されて準備したのは28cmと20cmのプレート、そして10cmの小皿の3種。
特に28cmのプレートは今回の「Noma」の料理の中でも話題になった「野生の鴨」に使用されたもの。北海道・青森・秋田など日本の各地で獲れた野生の鴨の丸焼をそのままプレートの上に乗せてお客様に見せる大胆なアプローチが雑誌メディアにも掲載され、そのビジュアルをご覧になった方も多いだろう。
この野生の鴨の盛付けに大村氏は
「器と鴨を1対1で扱ってもらえたと感じて嬉しかったです。目の前にある物と物の両方をきちんと見据えて組み合わた盛付けだと思います」
と、その印象を語っている。
それは大村氏が思い描いた「Noma」による自らが器に盛付けられた”過不足のない一皿”に間違いはなかった。
◆「Noma」は夢の終着点ではなかった
「Noma」へ皿を出した影響で仕事はやはり忙しくなった。
意外と飲食店の仕事は殆どなかったが、付き合いのあるギャラリーからの注文は確実に増えた。
「Noma」に選ばれたことは夢の実現でもあったし、良い影響は確実に出ている。
しかし、大村氏自身はすでに次を意識している。
「以前どこかで聞いたのですが、お箸を使う時に人間は自分の指だけではなく箸の先まで神経が届くそうです。であるならば、轆轤を回した時に私の心は轆轤まで届いているのではないか?そして、そこから自分の精神をそのまま焼き付けた器が出来るのでは?と考えています」
それは言葉にすると抽象的すぎて漠然としているが、イメージはある。
例えば工業的な量産品の器。
そこで生まれる直線は、機械的なただの直線でしかない。
そして、そういう線しか持たない量産品はただの物でしかない。
大村氏自身はそんなただの物でしかない量産品を手に持つと「違和感ばかりで使い続けられない」と感じている。
しかし、人の手によって真っすぐな線を作った場合、その線が機械的な直線と同じような線であっても、印象は全く違う。人の手が作る線を持った器はただの物にはならない。
その微妙なニュアンスの中に大村氏は自らのこれからの器作りの表現をイメージし始めているのだ。
うきは市にある大村氏の工房は携帯の電波も届かない山の中腹にある。
現代の”山の庵”のような工房で、大村氏は自らに向き合いながら作陶を続けている。
「何かを表現したいという気持ちを外に出さないと生きていけない」と感じていた少年の一途さ。
工房で黙々と仕事をする大村氏からは、そんな一途な少年がそのまま大人になって、食事をするように、水を飲むように、睡眠をとるように、表現に向き合い続ける1人の陶芸家の姿が垣間見える。
「Noma」が夢の終着点ではなかった。
大村氏の作陶は、今もまだ道の途中なのだろう。
大村剛氏の作品に対する問い合わせは下記の店舗までお願いします。
4月の魚
福岡県うきは市吉井町1133−5
電話:0943-75-5501